メール
-今、本質のライフスタイルを求めて-
やさしさを生きる・・・
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第三章 「暮らしの原風景」より


等身大の眼差・楊家溝
細川   中国には、「人間の持つ本来の姿」がまだあると思います。「等身大のまなざし」というタイトルには、「自分が原点で自分がものさし」、という意味がこもっている。人間がものさしという基本的なことが今は壊れてると思います。例えば、メールやインターネットは自分の身の丈を超えてないか、と思うわけです。あるいは、本当の子供らしさ、大人らしさってあるんだろうか。都市のスケールにしてもそうです。日頃「自分が動き回る生活のテリトリー」という意味では、例えば僕は大阪だったら環状線の内側が精一杯。外側に出るのは、身に余る感じやね。だから、超豪華で広くて立派な家は僕には必要ないんです。

吉村 若い人を見ていると気の毒。僕らはすぐいなくなるからどうなってもいいけど、どうなってもいい人間が若い人のためにがんばってるのよ(笑)。 
細川 「年寄りはたわ言をもっと言わなあかん」ということやと思う。たぶん全てがいいことではないと思うけど、そこには「次の世代のために」いいこともきっとある。

吉村 昨日もテレビで見たけど、中国の住宅はいいですね。シルクロードがゴビ砂漠のほうからずっと続いていて、あっちのおおらかさは僕の理想。日本の狭い住宅で便利だ何だってこちゃこちゃいじくるのはなんてくだらないのかと思いますよ。家はそんなに大きくなくても要は住み方。狭くてもその中に溶け込んで暮らせばいい。
細川 発想が逆なんちゃいますか。「広いから狭く住む、狭いから広く住む」。いかにシンプルに暮らすかでは…。

第四章 「残像達が語りかける真実」より


     
吉村 銃で撃って食べるのなんて卑怯。昔、「マンモスを槍で追いかけたみたいに、生きるために戦って食べる」んであれば神様も許すと思うけど。
細川 自然界には、さっき吉村さんも言われたように食物連鎖というものがあって、最後は大型の肉食獣が頂点に立つ。人間は別格で雑食やから何でも食べるからね。
吉村 とにかく人間は増えすぎましたね。「天敵がいないということは自然の法則に反する」ことですね。

吉村  昔、日本の山里は貧しかったよね。それはもう耐えがたいほどです。僕の潰れたあの山小屋にいたお爺さんは、茗荷の採れる頃は茗荷のおみおつけばっかり。今はその味が懐かしいけど。都会の生活から考えると食事の内容は貧しいですよね。 
細川 そのへんが僕はどう判断するのかが難しいと思うんです。一般的には貧しいと言われてしまうんでしょうけど、本当に貧しいんかな。豊かさということで考えると逆のことが言える。僕らが「普段食べてるものは豊かなんか、案外貧しいんとちがうかな。山里では季節に採れるものしかないけど、それをいろいろ工夫しながら料理に使っていくっていうことは逆に豊かなことじゃないのか」。食べることでも、建物をつくることでもそうやけど、やっぱり工夫されてることのほうが豊かやと思う。

吉村 昔、日本の山里は貧しかったよね。それはもう耐えがたいほどです。僕の潰れたあの山小屋にいたお爺さんは、茗荷の採れる頃は茗荷のおみおつけばっかり。今はその味が懐かしいけど。都会の生活から考えると食事の内容は貧しいですよね。
細川 そのへんが僕はどう判断するのかが難しいと思うんです。一般的には貧しいと言われてしまうんでしょうけど、本当に貧しいんかな。豊かさということで考えると逆のことが言える。僕らが「普段食べてるものは豊かなんか、案外貧しいんとちがうかな。山里では季節に採れるものしかないけど、それをいろいろ工夫しながら料理に使っていくっていうことは逆に豊かなことじゃないのか」。食べることでも、建物をつくることでもそうやけど、やっぱり工夫されてることのほうが豊かやと思う。

吉村 人口が増えると、どんどんタイルを敷き詰めちゃって代わりにどんどん空き地が減ってますね。政府も公共事業ではお金が余計かかるように計画してるみたいですね。僕はあのタイルは地球の”かさぶた“だと思いますね。地球が嫌がってるから出来るだけ土を残したいですよ。
細川 そのへんのところは立場によって考えにズレがありますよね。業者の側からすると後々メンテにお金をかけたくない。利用する側からすると土のままでは水溜りができて困るやないのという苦情が出てくる。一般の「市民は自分の方から土を遠ざけていってる」わけで、そやからグラウンドとか特別なところでないと土が残ってない。地面なんか多少水溜りがあってもいいやんかと僕は思うわけですわ。

吉村 細川さんと私は同じ世代の仲間。若い人達とは一線を画してる。知識がおよばない人類が宇宙をいじくりまわしてバランスが崩れたら、地球は太陽の引力に引っ張られちゃうかもね。
細川 これはどの世代でも永遠の課題。ぼくはたまたま党家村でも書いてるけど、都市の利便性は確かに有難い。でも、それと代償に無くした物はたくさんある。どちらが大事かは結論は出ない。ウォシュレットも良いんです。肥溜め式の持ってる良さもいいけど、今の都市とは背景が違ってた。肥溜め式には、「排泄物を次の生産に使う社会システム」があった。それが今はなくなってしまっているので、垂れ流しには出来ないから浄化しないといけない。現実に日本がこれだけ進んできてしまってると、過去へは戻れない。40代、50代の世代でも、「利便性の良さと引き換えにいろんなものを捨ててきた」はず。同じ悩みはどの世代にも必ずあるはずです。

細川 一時ライフスタイルの話がはやってね。ライフスタイルっていうのは新しい時代に対応した暮らしのあり方ってことだったけど、そういうライフスタイルじゃなくて、今の「資源問題の中でのライフスタイル」を見直さないとあかんやろね。一人ではどうしようもないけどね。
吉村 そう、一人ではどうしようもない。結局あきらめるしかないわけ。僕もこれだけ長いこと暮らしてきてよく考えたけど、じたばたしてもだめ。あきらめるしかない。
細川 ドイツではすごくそのへん進んでるけど、やっぱり教育。それと向こうは意識レベルが高い。だいたい日本で「公衆」なんていう言葉は、ものすごい新しい言葉じゃないのかなと思う。「公」とか「衆」という言葉はいつから出てきたか。調べたことはないけど、もともとそんな言葉は日本になかったんじゃないかな。
吉村 そう、なかった。
細川 「公」と「衆」の差があいまいなまま来てるけど、その点欧米では「公」が非常にはっきりしている。「公」に対して「衆」があり、その関係が明快。日本はそれがない。吉村 それが大きく変わるのが明治維新と戦後。まだ明治維新の後でも日本の持っていた良さっていうのは引きずっていた。
細川 戦後で途切れたんちゃうかな。戦後の教育で日本人が「残さなあかんかったものを残さんかった」。その当時としては、そういう方法が価値があったんやと思う。今になるとそうじゃない。そやから、日本人が不便なところへ行ったら不便さだけを感じてしまうことが多いみたいやね。「不便さの持っている良さ」なんかに目が行かない。
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